ユストは青の森の中を泣きながら歩いていました。そんなユストの心を打ち砕くかのように、小雨まで降り始めました。
「あっ!」
気が付いたときは、顔から地面に思い切り叩きつけられていました。ユストは一瞬、意地悪な門番の子に後ろから突き飛ばされたのかと思いました。しかし、門番の子はどこにもおらず、ユストが前を見ないで歩いていたため、木の根につまずいてしまったようです。手のひらには小石がいくつかめり込み、膝には血が滲んでいます。
――どうして、僕ばっかり…神様、僕が何か悪い事をしましたか?
ユストは手のひらにめり込んだ小石を指で押し出しながら、心の中で叫びました。
ユストには孤児になる前の記憶が一切ありません。養父のモルデカイは幼いユストを引き取り、スクエアードでも最高の教育を受けさせてくれました。しかし、根っからの学者肌で、無口なモルデカイとは打ち解けづらく、会話もあまりありませんでした。
しかし、お城では王様も女王様もそして幼い王女も優しく接してくれました。ユストがどんな事情で森の中の置き去りにされていたのかは、誰も知りませんでした。しかし、元々は良家の子供だったのでしょう。賢くて、お行儀も良いユストは、モルデカイに引き取られた半年後には、王女の遊び相手に選ばれました。
しかし、国王一家に気に入られているユストを妬む者も少なくありませんでした。まだ幼いユストに対して嫉妬心を剥き出しにしてきたり、外国人ということで差別をしたり、時にはユストに面と向かって「捨て子」と言う人さえいました。その度にユストは深く傷付きましたが、誰にも悩みを打ち明けることはできませんでした。そのせいもあって、ユストは未だにスクエアードの言葉や習慣に馴染めず、いつも居場所がないように感じていました。
そんな時、ユストはいつも青の森へ行って、思い切り泣くのでした。ユストは一人で青の森に行っても、一度も怖いと思ったことはありませんでした。なぜなら、ユストが一人で泣いていると、いつも小鳥やウサギたちが不思議がって寄ってきて放っておいてくれないからです。動物たちと遊んでいるうちに、何で泣いていたのかも忘れてしまうことさえありました。
今日もユストが青の森で泣いていると、大きな虫が飛んできて、ストンとユストの肩に止まりました。続けてもう一匹もどこからか飛んでくると、反対側の肩に止まりました。しかし、ユストは追い払う気にもなれず、泣き続けていました。
「ねえ、なんで泣いているの?」
誰かが耳元で囁きました。女の子の声のようでした。ユストは泣き顔を見られるのが嫌で、声が聞こえてきた方向とは反対の方向に顔を背けました。
――僕に話しかけないで!
ユストは横を向いたまま、女の子がどこかへ行くのをひたすら待っていました。しかし、女の子はユストに強い興味を感じたのか、どこへも行く気はないようでした。
「ねえ、なんで泣いているの?」
今度は反対側から別の女の子に声を掛けられました。ユストは慌てて顔を背けようとして、そちらにも女の子がいることを思い出し、膝にぎゅっと顔を押し付けました。
「ねえ――」
――しつこいなあ!放っておいてよっ!
さすがにムッとしたユストは顔を上げましたが、そこには誰もいませんでした。
――あれ?さっき確かに誰かの声が…
後ろを振り返ってみましたが、そこにも誰もいませんでした。
――もしかして、お化け?
ユストは急に怖くなりました。もしかしたら、青の森は子供が一人で来てはいけない場所なのかもしれません。そう言えば、青の森に遊びに来る人なんて、ユスト以外いないように思います。
――は、早く帰らなくちゃ…
一刻も早くその場を立ち去りたくなったユストは、慌てて立ち上がりました。すると、またしても女の子の声が聞こえてきました。
「ねえ、ここよ、ここ!」
誰かがちょんちょんと頬を突いています。ユストはもう一度、後ろを振り返りましたが、やはり誰もいませんでした。
――いやぁ~、もう止めてっ!
ユストはパニックになりかけました。
「ここだってば!ここ!」
クスクスと笑う声がして、ユストはキョロキョロと辺りを見回しましたが、やはり誰もいませんでした。恐ろしくなったユストは、走って逃げ出そうとしました。
「おバカさんね。ここだってば!」
――どこっ!?
パニックになったユストは、先程までとは違う意味で泣きそうになりました。その瞬間、再び後ろから頬を突かれて、ユストは固まりました。ギギギっと音がしそうなほどぎこちなく首を捻った視線の先には、奇妙な生き物がいました。
――えっ!?
小さな人間が宙に浮いています。
――小人っ!
地底には緑色の小人が棲む王国があると聞いたことがあります。青の森であれば、そのような地底王国と繋がっていても不思議ではありません。この小人たちは地底から湧いてきたのでしょうか。ユストが目まぐるしく頭を働かせていると、小さな人間はふわりと羽を広げてユストの肩に止まりました。
――ちがうっ!小人じゃない!妖精だ!森に棲む妖精だっ!
ユストは興奮して立ち上がりました。本物の妖精に遭えるなんて、なんてラッキーなのでしょう。もしかしたら、自分はすごい強運の持ち主なのかもしれません!
「よ、よ、妖精さんっ?!」
思わず、声が裏返ってしました。
「ふふふっ、そうよ、泣き虫さん。びっくりした?」
こくりと頷いたユストの手の上に、キキとリンはふわりと降り立ちました。
「泣かないのよ。男の子でしょ。」
「男の子でしょ。」
妖精たちに言われて、ユストはきまり悪そうに笑いました。
最初、ユストを見掛けた時、妖精たちは知らんぷりをしようと思いました。いつもこの森で泣いているユストのことが気にならないと言えば嘘になりますが、いかんせん人間の子供です。関わらないにこしたことはありません。可哀そうとは思いましたが、遥か昔、自分たちの国を滅ぼした人間に手を差し伸べるつもりはありませんでした。
遡ること三百年、妖精たちは緑の谷の中で平和に暮らしていました。しかし、ある日、突然、緑の谷に人間たちが現れ、妖精たちの頭上で戦争を始めたのです。争いとは無縁の世界で生きてきた妖精たちは、最初は何が起こっているのか分かりませんでした。ぼやぼやしているうちに、戦火に巻き込まれ、ある者は爆弾で吹き飛ばされ、ある者は人間や軍馬に踏み潰され、多く者がたった一日で死んでしまいました。
さらに悪いことに、戦闘が終わった後、人間たちは生き残った敵兵を炙り出すために、谷に火を放ちました。それによって、かろうじて生き残っていた者たちまでもが殺されてしまいました。
奇跡的に生き残ったのは、その日、たまたま、谷の外に出掛けていただけでした。二人が目にした光景は、あまりにも無残でした。焼け焦げた仲間たちと灰になった家々。それ以外は何一つ残っていなかったのです。
谷を後にしたキキとリンの心は完全に壊れ、それから何百年も生ける屍となってあてもなく荒野を彷徨っていました。
二人は心の底から人間を憎みました。妖精族だって喧嘩をすることはありますが、相手を殺すまで闘うことはしません。二人が知る限り、相手を殺すまで闘い合う生き物は人間だけでした。人間たちが行いを改めない限り、互いに殺し合っていつかはこの地上からいなくなるかもしれません。しかし、そうなったとしても自業自得です。
二人は人間を一生、許さないつもりでしたし、人間に近づくつもりもありませんでした。しかし、泣いているユストを見ていると、昔の自分たちを思い出し、居ても立ってもいられなくなるのです。やせっぽちの小さな後ろ姿を見送る度に、二人の胸は苦しくなりました。そして、今日、とうとう二人はユストに声を掛けてしまったのです。
「どうしていつも泣いているの?」
二人に訊ねられたユストは、ポツリポツリと自分の身の上を語り始めました。小さい頃、森の中でスクエアードの王様に拾われたこと。拾われる前のことは、まったく覚えていないこと。「捨て子」と苛められていること、などなど。
妖精たちは親身になって、ユストの話に耳を傾けてくれていました。しかし、次第に二人は落ち着きを失い始めました。なぜならば、ユストが動く度に美味しそうな甘い匂いが漂ってくるからです。
ぐうぅ~
キュルル~
甘い匂いに刺激されて、二人のお腹が盛大に鳴り始めました。
「妖精さん、お腹が減っているの?」
妖精たちのお腹の鳴る音があまりにも大きかったので、ユストは目を丸くしました。真面目な話を聞いていた途中だっただけに、きまりが悪かったのでしょう。二人は顔を赤らめました。
「少しね。」
「そう、ちょっとだけ。」
何日も食べていないにもかかわらず、二人は強がってみせました。
ユストはポケットの中にお菓子が入っていることを思い出しました。お城で出されたおやつの残りです。とても美味しかったので、甘党のモルデカイのために少し貰ってきたのでした。
「これ…食べる?」
ユストはガサゴソとお菓子の包みを取り出しました。転んだせいで、ボロボロに砕けていましたが、それでも二人とってはすごいご馳走に見えました。アーモンドの粉を練り込んだこの焼き菓子は、スクエアードの伝統的なお菓子でした。
妖精たちはすぐさまお菓子に飛びつくと、夢中で食べ始めました。ガツガツとお菓子を貪り喰らう姿にユストは少し驚きましたが、二人が何日も食べていないと聞いて可哀想に思いました。
――今度、森に来るときは、この子たちにお菓子を持ってきてあげよう
それが三人の出会いでした。
次の日から、ユストは毎日、青の森に行くようになりました。妖精たちと一緒にお菓子を食べたり、遊んだりするうちに、三人はあっという間に仲良くなりました。
ユストは妖精たちを自分と同い年ぐらいだと思っていましたが、このとき、キキとリンは既に五百歳を超えていました。しかし、妖精族というのは、いくつになっても子供っぽいところがありますので、大人と一緒にいるよりも、子供と遊んでいるほうが何倍も楽しいのでした。
キキとリンはその可愛らしい見た目に合わず、かなり口が悪く、そして大食いでした。
――なんか、絵本に描かれている妖精と違うな~
妖精たちに会う度に、ユストの中の妖精のイメージが崩れていくのでした。
時は流れ、いつしかユストのスクエアード語も上達し、近所の子供たちとも仲良く遊べるようになりましたが、時折、お菓子を持って妖精たちを訪ねることは忘れませんでした。もちろん、妖精たちの存在は、誰にも明かしたことはありません。
ある日、ユストが城で王女たちと遊んでいると、三時のおやつにとても綺麗なゼリーが出されました。涼し気な透明の器に入ったゼリーは、二色の層になっていました。器の真ん中には小さなミントの葉が添えられていました。
一番上の層は、透きとおったライチ味のゼリー。その下は水色のサイダー味のゼリーになっていました。水色のゼリーの中に丸い形をした桃のゼリーや、メロンのゼリー、ぶどうのゼリーなどが入っていました。あまりにも綺麗だったので、ユストは食べるのも忘れて見惚れていました。が、ふと、妖精たちを思い出し、二人にも食べさせてあげたくなりました。
ユストが思い切って、若い給仕係りにゼリーを持って帰ってもよいかと訊ねると、給仕係りは微笑んで余っている分を袋に入れて持たせてくれました。
自由に外に出られない王女は、これから青の森へ行くと言うユストを羨ましそうに見ていました。ユストは王女を残していくことにちょっぴり罪悪感を感じつつも、早速、森へと向かいました。
ゼリーを見た瞬間、二人は歓声をあげました。
「キャー、キレイっ!すごいっ!」
「うわぁ~、こんなキレイな食べ物、見たことがないっ!」
今にもゼリーの器に齧りつきそうです。
苦労して運んできた甲斐がありました。
しかし、二人は喜びつつも、ゼリーを中々、食べようとはしませんでした。何かを言いかけては、もじもじしています。
「どうしたの?二人とも食べないの?」
ユストが二人に声をかけると、二人は顔を見合わせて意味あり気に頷きました。
「キキが言ってよ!」
「リンこそ、言ってよ!」
二人は互いに肘で小突き合っています。
このゼリーの一体何が問題なのでしょう。
――もしかしたら、ゼリーは好きじゃないとか…
ユストは心配になってきました。
「あのね、実はわたしたち…」
キキが意を決したように口を開きました。
「前から一度、やってみたかったことがあるの。」
二人の声が重なりました。
「ええっ?なに?」
ユストは二人が何を言い出すのか予想もつかず、困惑しました。
「あのね――」
キキとリンは器の縁にすっくと立ちました。
「きっと、ユストは気を悪くするとだろうけど、怒らないでね。」
そう言うとキキは迷うことなくゼリーの海に飛び込みました。
ちゃぷっ
――あ”ーっ!
ユストは心の中で叫びましたが、止める間もありませんでした。
「きゃあっ!あたしもっ!」
ちゃぷっ
――あ”ーっ!
すかさず、リンもゼリーの中に飛び込みました。
あっけにとられているユストの目の前で、二人は大きな口を開けてゼリーを食べながら、下へ下へと潜っていきます。
ユストが器を目の高さに持ち上げると、キキがちょうど器の底に達したところでした。キキはガラス越しにユストに手を振ると、器の底を蹴って、今度は上へ上へと泳ぎ始めました。
――ええっ?!こんな食べ方ってあり!?
器を持ったまま、ユストは絶句しました。
「プハッ!」
「フウッ!」
ゼリーの海から顔を出した二人は、大きく息を吸い込むと、満面の笑みを浮かべました。こんなに楽しい気分になったのは、何年振りでしょうか。
ハハハ、ハハハと笑う二人の声が、青の森に木霊します。
「ユストっ!ありがとう!すご~く楽しかった!キャハハ」
「あたしもっ!すご~楽しかったし、シュワシュワってして気持ちが良かった!ユスト、ありがとうね!ウフフ」
「シュワシュワっとした」というのは、サイダー味のゼリーのことでしょう。しかし、ユストとしては、そこは「楽しかった」とか「気持ちが良かった」ではなく、「美味しかった」と言ってもらいたいところです。しかし、屈託のない笑顔を向けられると、そんな言葉も引っ込んでしまいました。
「ユストも一緒に泳げたらよかったのにね。」
「ホントね。ユストがもう少し小さかったらよかったのに。」
「フフフッ、そんなの無理だよ。」
二人の言葉に、ユストは思わず吹き出してしまいました。
――それに、もしも僕が君たちくらい小さかったとしても、そんなお行儀の悪いことはしないよ。
あっという間に穴だらけになってしまったゼリーを見て、ユストは心の中でそう思いました。そんなユストの心の内を知ってか知らずか、羽を震わせて笑っています。体中に着いたゼリーは、葉っぱをタオル代わりにして、拭き取っています。もちろん、汚れた葉っぱはその辺にポイ捨てです。
二人のお行儀の悪さには呆れるばかりですが、ご機嫌な二人を見ていると、ちょっとだけ可愛いなんて思ってしまうから不思議です。
あとがき
ユストが子供の頃の話になります。
人間に手を差し伸べたことで、妖精たちは過去の恨みを乗り越えられ、新たな一歩を踏み出したようです。
いつまでも過去に捕らわれていては何も変わりません。私達も二人のように勇気を出して、一歩前に進まなければならないのかもしれません。
また、泣いてばかりのユストも、他者を思いやることで自分の不幸を忘れることができました。腹ペコの妖精さんたちのお蔭ですね。
人はどんなに辛い状況でも、他人を思いやることができます。自分のことで精いっぱいで他人を思いやる余裕なんてないと思うような状況でも、その気になりさえすれば、他人のために何かをすることができます。そして、どんな状況でも他人を思いやることによって、自分のことばかり考える袋小路から抜け出せ、自分も励まされることがあります。
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