「ちょっと待って、リン!」
小さな白い店の前でキキはリンを呼び止めました。
「なあに、キキ?」
「これ、見て」
そう言ってリンが指差したのは、ケーキ屋さんのショーウインドウでした。ショーウインドウには、パステルピンクやブルーの可愛いカップケーキがずらりと並べられていました。
――ごくっ
リンは思わす唾を飲み込みました。
“巷で話題のフェアリーケーキ、今なら1個50ランス”
値札には丸い文字でそう書いてありました。
「なになに? 巷で話題のフェアリーケーキ…」
「フェアリーケーキですって!」
リンとキキは顔を見合わせました。
「もしかしたら、もしかして……」
「これって…….」
「私たちのためのケーキ?!」
「キャー」と嬉しい悲鳴を上げて、二人は手を握り合いました。喜びに舞い上がっている二人には、「1個50ランス」という文字はまったく目に入りませんでした。
「ねえ、見て!あそこに私たち用の椅子とテーブルが用意されているわ!」
よく見るとショーウインドウの左端に、人形用の小さなテーブルと椅子が飾られていました。テーブルの上にはご丁寧に小さなティーカップとポットまで並べられているではありませんか。
このお店の名は「フェアリーテイル」。色とりどりの菓子やリボン、風船で溢れた店内は、まるでおとぎの国のようでした。お店の横にはカフェも併設されており、ケーキとお茶を楽しむことができます。
しかし、お腹が減って今にも死にそうな二人にとって、店内の装飾などどうでもよいことでした。
「私たちにここでお茶でも飲みながら、ケーキを食べてくださいって言っているのかしら?」
そう言っている間も、キキはケーキから目を離すことができませんでした。
「きっと、そうよ。」
「夢みたいだわ…」
「ほんとね。夢でも見ているんじゃないかしら。」
「人間が私たちにこんなに親切にしてくれるなんて、なんだか気味が悪いわね。」
「そうよね、気をつけないと…」
そう言いつつも、二人はショーウインドウの前から離れることができませんでした。
風に流されるままに荒れ野を彷徨い続けること一週間。その間、鳥に狙われたり、キツネに襲われたり、散々な目に遭ってきました。安全な場所を探して、次から次へと場所を変えていたため、ゆっくり休むことも、食べ物を探すこともできませんでした。自分たちの家があった頃は、二人とも暖かな家の中で生活していましたが、妖精王国が滅びてからは岩陰や木の上、花の中で眠るしかありませんでした。
しかし、どこにいても動物や鳥、虫などに襲われる危険があり、安心して眠ることはできませんでした。昨日だって、急に雨が降ってきて――
キキとリンは昨日の出来事を思い出しました。
昨夜遅くに町のはずれに到着した二人は、急に降り出した雨のために、急いでねぐらを探さなくてはなりませんでした。人間には分からないかもしれませんが、体の小さなキキとリンにとって雨は大変、恐ろしいものなのです。雨粒が当たると羽が破れてしまう可能性もありますし、打ち所が悪ければ、死んでしまうことだってあります。
春先の雨は典型的な小糠雨で、二人の体を痛めつけるほど強くはありませんでしたが、それでも体が冷えて、徐々に体力が奪われていきます。キキとリンは雨を避けるために、近くにあったキャベツ畑に飛び込みました。一番手前のキャベツの下に潜り込むと、二人はほっと一息つきました。
ポロン、ポロン。
キャベツに弾かれた雨が、流れ落ちていきます。キャベツ畑に飛び込んだのは正解だったようです。二人は濡れた長い髪を絞り始めました。そのときです。
「そこで休まれちゃあ、困るな。」
二人は頭上から降ってきた声にギクッとしました。
見上げると、キャベツの天辺から大きな青虫が二人を見下ろしていました。
「ここは俺の家なんだ。出て行ってもらおうか。」
――今、来たばかりなのに…
絶望感と疲労感に、二人は足元から崩れ落ちそうになりました。
「お願いです。雨が止むまででいいので、ここに居させてもらえませんか?」
二人は青虫を怒らせないように、丁寧にお願いしました。皆さんはご存知ないかもしれませんが、青虫は怒りっぽいことで有名なのです。
「ダメだね。さっさと出て行ってくれ。」
「そんなあ……」
一歩も譲らない青虫の態度に、二人は渋々、キャベツの下から這い出ました。疲れ切った二人には、飛ぶ力もほとんど残っていませんでした。二人がなかなか飛び立てずにその場でぐずぐずしていると、業を煮やした青虫が上から降りてきました。
「さあ、さあ、早く出て行ってくれないか。そこもうちの敷地なんだ。」
青臭い息を吹き掛けられて、二人はやむなくその場から退散しました。
その後、二人は片っ端からキャベツを当たってみましたが、青虫が住んでいないキャベツはありませんでした。二人は疲労と空腹から隣にある小麦畑に倒れるように突っ伏しました。しかし、小麦が雨を弾いてくれるわけもなく、二人は泥だらけになりながら、小麦畑で一夜を過ごしました。
そういう訳で、二人の身も心も限界に達していました。羽だってボロボロです。二人の体は傷付いた心と体を慰めてくれる甘い物を欲していました。
そして、一夜明けた今、目の前にあるこの光景はなんなのでしょうか?リンは自分のほっぺたをギュっと抓りました。
ピンク色に光り輝くクリームは、眩し過ぎてクラクラするほどです。それでなくても、妖精というものは、甘い物に目がないのです。どうしてこの誘惑に勝てることができましょうか。
グゥ~
キュルルル~
少し開いた窓の隙間から甘い香りが漂ってきて、二人は泣きたくなりました。引き寄せられるように窓に近づくと、二人は中を見回しました。
「ああ、お腹ペコペコ。目が回る。」
「あたしも。お腹が減りすぎて死にそう…」
い店の中には誰もいないようです。気が付くと、二人は店の中にいました。店の中に入った二人は、妖精のための指定席 ― 二人が勝手にそう思い込んでいるだけですが ― に恐る恐る近づくとそっと腰を下ろしました。
「ふぅ~」
「はぁ~、疲れた...」
どかっと椅子に腰を下ろした二人は、同時にため息をつきました。人形用の椅子は本格的な造りで、とても座り心地が良く、一度、座ったら二度と立ち上がれなくなりそうでした。
二人が寛いでいると、ふと、誰かの視線を感じました。二人が視線のほうへ目を向けると、そこにはガラス越しに二人を見詰める女の子の姿がありました。
――ギャッ!
二人は驚いたのなんの。思わず椅子から飛び上がりました。
まだ、三歳ぐらいでしょうか。女の子は二人と目が合うと首を傾げました。
――このお人形さん、生きているみたい。
女の子はじっと二人を見詰めました。二人も固まったまま、女の子を見詰め返しました。いつもなら、人間に見つかった時点でさっさと逃げ出すのですが、今日は疲れて判断力が鈍っているせいか、体が動きません。
「ねえ、パパ。」
女の子は傍らに立つ男の人を見上げると、手を引っ張りました。
「なんだい、リール?」
パパと呼ばれた男の人はしゃがみこむと、女の子を後ろから抱きかかえるようにして一緒にショーウインドウを覗き込みました。
「ああ、キレイだね。どれも美味しそうだ。」
男性は、ショーウインドウの隅で固まっているキキとリンには気が付かなかったようです。
「へぇ~、フェアリーケーキか。可愛いね。リールはどれが食べたいのかな?」
男性は女の子の丸いお腹をポンポンと叩きながら、訊ねました。女の子は少し考えた後で、片隅にいるキキとリンを指差しました。
――ヒィ~
二人は悲鳴を噛み殺しました。
「あのね、これ…」
キキたちは身振り手振りで、女の子に黙っているようにと訴えました。
「ん?」
女の子に促されて男性がショーウインドウの隅に目をやると、そこには恐怖に固まっているキキとリンの姿がありました。
――ギャ~、助けて~。人間に捕まっちゃう!
「ハハハハ、フェアリーケーキだから、妖精の人形も飾ってるんだ。凝ってるな。」
男性はチラリと二人を見ましたが、すぐにケーキに視線を戻しました。
「そう言えば、このお店の名は『フェアリーテイル*』っていうんだな。ママが好きそうなお店だ。今度はママも連れて来てあげようね。」
「うん。」
男性が言うと、女の子は嬉しそうに頷きました。
「よし、じゃあ、お店の中も見てみようか?家でお留守番している食いしん坊の妖精さんにも何か買って帰らなくちゃな。」
「妖精さん?」
「ママのことだよ。」
「ママは妖精なの?」
「ハハハハ、さあ、どうかな? 帰ったらママに訊いてごらん。」
親子がショーウインドウの前を離れると、キキとリンは詰めていた息をホッと吐き出しました。指定席が用意されているとはいえ、ここでお茶をするのは危険過ぎます。
「帰らない?」
リンがそう言うと、キキが速攻でうなずき返しました。
「ねえ、でも、せっかくだから、一つだけ持って帰りましょうよ。」
(作者の声:それは泥棒です。)
「そうね、せっかく私たちのために用意してくれたんだし。」
(作者の声:違います。)
「そうよね、一つぐらい食べてあげないと悪いわ。」
(作者の声:やめてください。)
「どうしたんだい、リール?」
レジで支払いを済ませていた男性は、後ろばかり気にしている女の子の頭を優しくなでました。女の子は後ろを飛び回っている妖精たちが、気になって仕方がありませんでした。それというのも、二人がとんでもない事をしでかしていたからです。
「ねえ、パパ。」
「なんだい?」
――しぃ~
リンとキキは唇に人差し指を当てました。
「ううん、なんでもない。」
女の子は二人にそっと手を振りました。しかし、ピンクのケーキを運んでいる二人には、もちろん、手を振り返す余裕はありませんでした。
翌日、この店のショーウインドウに、こんな貼り紙が貼られました。
「申し訳ございませんが、フェアリーのご入店は固くお断り致します。」
冗談とも本気ともつかない内容でしたが、数人のご近所さんがその貼り紙に反応を示しました。どうやらリンとキキを見たのは、店主と小さな女の子だけではなかったようです。
ケーキが空を飛んでいくのを見たとか、この近くには妖精がいるとか、いないとか。小さな町はしばらくの間、そんな話題でもちきりになりました。
「可愛らしいお嬢さんですね。」
店主が若い父親に声を掛けました。
「ありがとうございます。」
続けて何かを言おうとした店主は、若い父親の背後に何か動くものを見つけました。
――あら、何かしら?
ピンク色の物体が宙を飛んでいったような気がします。
――フェアリーがフェアリーケーキを!?あら、やだ、私ったら、年かしら。目の錯覚ね。
店主は一旦、老眼鏡を外してから、掛け直してみました。すると、そこにはもう何もいませんでした。
――最近、目が霞んで仕方がないのよね。目薬をささないと…
店主は先程、見たものを無理やり目の錯覚のせいにして、自分を納得させました。
しかし、残念ながら、それは目の錯覚ではありませんでした。なぜなら、その日、店主が何度計算しても、売上げが50ランス足りなかったからです。
――ケーキの数と売上が、どうしても合わないわ。
店主の頭の中をたくさんの「?」が行き交いましたが、結局、答えは出ませんでした。
翌日、この店のショーウインドウに、こんな貼り紙が貼られました。
フェアリーのご入店は固くお断り致します。
冗談とも本気ともつかない貼り紙でしたが、数人のご近所さんがそれに反応を示しました。どうやらキキとリンを見たのは、店主と女の子だけではなかったようです。
ケーキが空を飛んでいくのを見たとか、この近くには妖精がいるとか、いないとか。小さな町はしばらくの間、そんな話題でもちきりになりました。
* 「フェアリーテイル」は、「おとぎ話」という意味です。
あとがき
フェアリーケーキはイギリスの伝統的なカップケーキです。カラフルで、目でも楽しめるフェアリーケーキは、イギリスでも大人気です。
ちなみに、フェアリー(fairy)には、「妖精」の他に、「小さい」「かわいい」という意味もあります。
元々は子供用のお菓子とされていたため、その名のとおり、カップケーキよりも小ぶりであることが多いです。
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