ユストが帰国してから、はや半月。女王とユストは多忙を極める中、スケジュールを調整して、やっと二人だけのお茶の時間をとることができました。今日は天気が良いので中庭のテーブルでお茶を頂くことにします。
二人が中庭に出ると、テーブルの上には薄い陶磁のティーカップとパウンドケーキが用意されていました。テーブルの中央には繊細な花びらを持つスクエアード・ローズも飾られています。
二人が席に着くと、傍に控えていた侍女がすぐにお茶を注いでくれました。女王の前には美肌効果のあるローズ・ティーが、そして徹夜続きのユストの前には頭をすっきりさせる作用のあるミント・ティーが置かれました。
今日の女王は体調も良いようで、表情も明るく、若い娘らしくユストの話にコロコロと笑い転げていました。明るい庭先に鈴を転がしたような笑い声と豪快な笑い声が響きます。いつもは青白い頬も、笑ったおかげでうっすらと赤みが差し、今の女王は瑞々しい生命の輝きに溢れていました。
ユストは女王を笑わせようと、面白おかしく旅の土産話をしていました。けして楽な旅ではありませんでしたが、何はともあれ、こうして無事に帰国することができました。おばあちゃんとの約束どおり、パウンドケーキも女王にわたすことができました。こうして二人だけでお茶を飲むなんて何年振りでしょうか。
――最後にこの女性とお茶を飲んだのは…
あれは確か3年ほど前の春でした。女王はまだ王女の立場でした。16歳になったばかりでしたが、その年の秋には従弟との婚約が発表される予定でした。
一国の王女ともなれば、自由に結婚相手を選ぶことはできません。それでも王と王妃は少ない選択肢の中から、王女にとって最良の相手とも思える婚約者を見つけました。王女と従妹は傍から見てもお似合いのカップルでした。二人の仲睦まじい姿を見るにつけ、ユストの胸は張り裂けそうになりました。一方で、王女の幸せを心から祝福できない自分を責める気持ちもあり、随分と苦しい思いをしました。
中庭で、王宮の柱の陰で、はたまた二人から逃れるために避難した図書室で、ユストは何度も二人を見掛けました。
――麗しい金銀の髪を持つ王族たち…
頬を寄せ合い、二人だけの秘密の言葉を紡ぎ合う恋人たち。風に吹かれて混ざり合う金の髪と銀の髪…
――早くこの場を立ち去らなければ…
そんな光景を目にする度に、ユストは一刻も早くその場を離れなければと思うのに、気持ちとは裏腹に体は凍りついたように動かなくなるのです。そして、話しに夢中になっていた恋人たちが、ふと人の気配を感じてこちらを見る瞬間――良く似た色の4つの瞳に見つめられて、ユストは自分が二人を盗み見していたような後ろめたさを感じるのでした。
自分でも女々しいとは思いますが、あの時の胸の痛みを、ユストはまだ忘れることができませんでした。
王女の婚約発表と期を同じくして、ユストの昇進が決まり、その頃からユストは海外に派遣されることが多くなりました。また、ユスト自身も二人から逃れるように、自ら進んで危険な海外の任務を希望するようになりました。そして、ある年、長く過酷な任務を終えて帰国してみると、王女は留学のためにメパテアに旅立った後でした。そして、王女の留学中に、先王の暗殺事件が起ったのです。王と王妃の暗殺に巻き込まれるようにして、婚約者の従妹も殺されていました。
もとより、最初から叶うことのない恋と諦めていたユストです。あんな形でライバルがいなくなったからといって喜べるわけもありませんが、婚約者の死によって苦しい嫉妬の炎から解放されたのも事実でした。
ユストが片目になってスクエアードに戻ってきたとき、女王は自分を責め、悲しみと罪悪感から自分の体を傷付けようとさえしました。しかし、ユストが片目になったことをあまり気にしていないことを知ってからは、女王も罪悪感をできるだけ表に出さないようになりました。持って生まれた特殊能力に起因しているのか、女王は人並み外れた共感力の持ち主でした。それは女王の優しさの源でもありましたが、一国の女王としては危うい側面も持ち合わせていました。
帰国したユストを待っていたのは、耳を疑うような報告ばかりでした。留守の間に、いくつかの法律が改悪され、それに反対した何人かの家臣が女王の叔父によって解任されていたのです。
ユストはすぐに議会を招集し、不眠不休で女王の叔父を王位につけようとする派閥と闘い続けました。その甲斐あって、最近になってやっと、改悪された法律をすべて廃止し、誠実さゆえに追放された者たちを呼び戻すことができました。
この時は、女王もユストとも必死になって闘いました。スクエアードは王政制度をとってはいましたが、先代の王の時代からは民主主義も少しずつ取り入れるようになってきました。しかし、自分たちの利権を守ろうとする一部の貴族たちにとって、民主主義を取り入れた議会制度は邪魔なものでしかありませんでした。先王がやっとのことで議会制度を貴族たちに認めさせた矢先、何者かによって毒殺されてしまったのです。
今や議会は死に体も同然で、辛うじて定期的に開かれてはいたものの、怒鳴り声や罵声が飛び交う不毛な話し合いの場と化していました。
何ヶ月間も争いの渦の中にいた二人にとって、こんな穏やかな時間は久しぶりでした。
おばあちゃんが餞別代わりにくれたパウンドケーキは、ナッツやドライフルーツがふんだんに使われて、素朴でどこか懐かしい味がしました。程よい甘さが疲れた体に沁み渡ります。
「ああ、癒される…」
「ええ、本当に。」
二人は顔を見合わせて頷きました。半分ほど食べたら、残りは自分が留守の間、人のニ倍、いや三倍は働いていたであろうネタニヤに食べさせてあげようと思っていたのですが、気が付けば、二人で三分の二ほど食べてしまいました。
このパウンドケーキは美味しいだけではなく、何か特別な力が籠められているような気がします。食べると身も心も癒されてどんどん力が湧いてくるのです。たぶん、「愛情」という魔法のスパイスが効いているせいでしょう。
しかし、甘い物よりも何よりもユストの心を癒してくれるのは、久々に見る女王の笑顔でした。まだ幾分、やつれてはいるものの、一頃に比べると頬が大分、ふっくらとしてきました。カップ越しに見る花の顔は、風に揺れるピンクのバラの印象と相まって、美しもどこか儚げです。カップを持つ女王の手はあまりにも細く、庇護欲を刺激されたユストは、思わずその手を取って口づけしたくなりました。
――この人には、いつも笑っていて欲しい。いつも傍にいて、守ってあげたい。
しかし、そんな気持ちはおくびにも出さず、ユストは侍女に合図して、残ったケーキを下げさせました。
侍女が下がった後、二人は庭を眺めながら、とりとめのない話しをしました。ふと、会話が途切れた瞬間、二人の頭上を鳥がさえずりながら飛んでいきました。穏やかな時間が流れていきます。
「昔みたいに、芝生に寝ころがって昼寝でもしましょうか?」
何かを思い出したのか、女王がクスクス笑いながら話し掛けてきます。その言葉に、
「服に草の汁がつくと、叱られますよ」
とユストが返そうとした、その時です。
侍女が中庭に転げるように駆け込んできました。
「大変です!」
「何事ですか!」
――またしても叔父たちが何かを…
腰を浮かせかけた女王を手で制して、ユストが侍女に穏やかに問い掛けました。
「どうしたのですか?」
ユストと目が合った瞬間、侍女の顔がみるみる赤く染まりました。
――やだ…ユスト様とまともに目が合っちゃった。恥ずかしい…。
そんな侍女の様子に気付いているのかいないのか、ユストはそっと侍女を立たせると、優しく問い直しました。
「どうしたのですか?落ち着いてゆっくり話してみてください。」
優しく手を取られた侍女は、眩暈がして、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなりました。
――眩しい…ユスト様、すごくキラキラしている。
目が完全にハートになっています。
――あら、やだ。私ったら。こんなときに、何を考えているのかしら。とにかく、ちゃんと報告しなくっちゃ…。二人きりの大切な時間を邪魔してしまうのは申し訳ないけど、一大事なんだから仕方がないわよね。
侍女は女王様を気にしつつも、ユストに事の顛末を話し始めました。
この侍女は先程まで二人の給仕を務めていた侍女でした。先程、ユストの指示に従って、パウンドケーキを厨房に下げたのですが、厨房に行くと顔見知りの下働きの女がいて、ついついおしゃべりに夢中になってしまいました。
話題はもっぱら、ユストのことでした。ユストが帰国した時、スクエアード中の女性がざわめきました。彼女たちの目には、黒い皮の眼帯に長髪姿のユストが非常に魅力的に映りました。ユストの影響で、スクエアードでは一時期、男性の長髪が爆発的に流行りました。
「今の短髪も、爽やかで素敵よね。」とか、「女王様を見つめるユスト様の目ったら、とけそうなくらい甘かったわよ」とか、「あんな目で見られたら、死んでしまう」とか何とかかんとか。二人の話が尽きることはありませんでした。
彼女たちから見れば、ユストは充分に位の高い人物ではありましたが、それでも、ときには直接、言葉を交すこともできます。雲の上の王族たちよりはずっと身近で親しみのもてるアイドルなのです。気難しい年寄りばかりの宮廷で、ユストのような存在は貴重でした。彼女たちが熱を上げるのも無理のないことです。
二人が興奮しながらキャーキャーとしゃべっていると、料理番が突然、厨房に入ってきました。
油を売っていたところを見られてしまった二人は、慌てておしゃべりを止めると、仕事を始めました。しかし、パウンドケーキを片付けようと、侍女が後ろのテーブルを振り返ると、そこにあったはずのケーキは跡形もなく消え失せていました。二人ともおしゃべりに夢中で、ケーキが盗まれたことにはまったく気付きませんでした。
――ああ…おしゃべりなどしていないで、すぐに片づければよかった…そう思ったのも、後の祭り。いくら探しても、なくなったケーキが出てくることはありませんでした。
侍女は自分たちがおしゃべりに夢中になっていた件は大幅に省略し、少しの事実に自己弁護の嘘をたっぷりと上乗せしつつ、事件を報告しました。
聞けば、件のケーキはユスト様が三ヵ月もかけてわざわざ外国から持ち帰ったお菓子というではありませんか。非常に貴重で高価なお菓子だったに違いありません。その証拠に、あのケーキは三ヵ月経ってもまったく腐っていなかったのです。それまで、侍女は腐らない食べ物があることなど、想像だにしませんでした。
――そんな大切なケーキが盗まれてしまったなんて…
盗人のせいとはいえ、責任の一端は自分にもあります。話し終えた侍女は罪の意識に顔を上げることができませんでした。
「アハハハハッ」
突如、頭上から聞こえてきた笑い声に、侍女は自分の耳を疑いました。
――へっ?!…笑ってる…?
侍女が驚いて顔を上げると、目の前でユストが腹を抱えて笑っています。
「いや、失礼…」
侍女の視線に気が付いたユストは、真面目な顔をしようとしましたが、まだ笑いが抑えきれないようでした。予想もしていなかった展開に、侍女はどうしていいかわからなくなりました。
「ケーキが盗まれた」と聞いて、ユストが真っ先に思い浮かべたのは、羽の生えた手の平サイズの二人組でした。そういえば、お茶の席に着いたとき、草叢から痛いほどの視線を感じました。今思えば、あれはお菓子をよこせという二人からのサインだったのでしょう。女王を笑わせることに夢中になるあまり、そこまで気が回りませんでした。そこまで考えて、ユストは再び笑い出しました。あの二人がおばあちゃんのお菓子に目がないことは知りすぎるほど知っていたのに、見す見す敵の手に渡してしまうとは、なんたる不覚。仕方がありません。ネタニヤたちには、後日、改めて何か美味しいものをご馳走することにしましょう。
しかし、自分がネタニヤにあれを食べさせたかったのは、珍しい外国のお菓子だからではありませんでした。あのケーキにはおばあちゃんの愛情がたっぷりと詰まっていたからでした。ネタニヤならきっとそれを分かってくれるだろうと思っていたのですが、残念です。
ケーキを運び出している二人の姿を想像したユストは、またしても込み上げてくる笑いを堪えようと、口元に手を当てました。
――突然、笑い出したりして、どうしたのかしら?
女王もユストの様子を訝しく思ってはいましたが、ユストはこう見えても意外に笑い上戸なのです。それを知っている女王は、あまり気にしませんでした。
「犯人は大体、わかりますから、心配しなくても大丈夫です。」
できるだけ真面目な顔でユストがそう伝えると、侍女はまだ怪訝な顔をしてはいたものの、ほっとした様子で下がっていきました。
侍女が下がると、女王はカップを持ち上げて少し冷めたお茶を一口、飲みました。詳しいことはわかりませんが、こういうことはユストに任せておけばいいのです。つまりはそういうことです。
女王はまた、一口、お茶を飲むと目の前に立つ長身の男を見上げました。小さい頃は目が大きくて女の子のように可愛らしかったのに、今では随分と変わってしまいました。
――でも、この笑い方は変わらない……
ユストは女王の視線に気が付くと、再び椅子に腰を下ろして、にっこりと微笑みました。目の前で微笑む幼馴染は、常に冷静で、恐ろしい敵にも敢然と立ち向かい、老獪な政治家相手にも感情を揺さぶられることもなく、何を考えているのかよくわからない可愛げのない大男になっていました。
女王はユストの能力を高く評価していましたが、生のままの感情が伝ってこないユストを寂しくも感じていました。国民からはスクエアード・ローズと謳われる女王ですが、彼女自身はその繊細な外見に似合わず、極めて現実的でストレートに感情を表現する人でしたので、ユストにもそのように接してくれること望んでいました。
子供の頃のユストを知る女王にとって、今のユストは常に心にベールを掛けているようで、近くにいても遠くに感じました。優しいけれど、どこか隔たりを感じる接し方は、泥んこになって一緒に遊んだ日々そのものを否定しているようにさえ感じます。
――私たち、過去を消し去りたくなるほど、恥ずかしい遊びをしたかしら?
ときどき、女王はそう言ってユストを困らせてみたくなります。
――まあ、いいでしょう。
女王は素知らぬ顔で、ユストに微笑み返しました。
――あなたの笑い声はいつ聞いても気持ちが良いから、許してあげます。
女王は、フフフッと一人、笑いを漏らしました。
部屋に戻ったら、子供の頃の絵でも見返してみましょう。たしか、幼い女王が同じ年頃の子供たちと遊んでいる絵が何枚かあったはずです。そして、そこには幼いユストの姿も書き込まれていたはず…
――その絵を見せたら、どんな顔をするかしら?
自らの思いつきに満足すると、女王は優しい笑みを零しながら、ユストのカップに自らお茶を注いであげました。その白い手をもって。
あとがき
スクエアード・ローズはもちろん架空の植物ですが、イングリッシュ・ローズに似たバラをだと思ってください。
日本ではバラといったらつぼみが固く締まった「剣弁高芯咲き」の印象が強いですが、イングリッシュ・ローズはもっと柔らかくて脆い印象があります。
そう言えば、故ダイアナ妃は「イングリッシュ・ローズ」と呼ばれていましたね。東洋では美人は牡丹に例えられることが多いですが、西洋では美人といえば薔薇や蘭のイメージなのかもしれませんね。いずれにせよ、華やかで人目を惹く花たちです。
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